この疑問に対する解答は「クラフトビール」という語の定義の仕方による。問題の本質はまさにここにある。つまり、「クラフトビール」という語の使われ方と意義が、方向が定まらないほど広く普及しているのだ。世界で最も活発な「クラフトビール」文化の発信地である米国では、「クラフトビール」という語はブルワーズアソシエーション(BA)が公認する定義にしっかりと結び付けられている。BAは、クラフトビールをつくるブルワーの保護と支援を目的としている業界組織だ。約10年前、日本の小さなクラフトビールコミュニティーが英語のcraft beerをクラフトビールとして使い始めた。彼らの語の用い方は最初から米国のクラフトビール産業におけるクラフトビールの意味について公平で正確な理解を反映していた。このカタカナ語としての「クラフトビール」は、単に「小さな規模でつくる」という意味を超えて、「地ビール」という語に取って代わり始めた。それは英語においてmicrobrewがcraft beerにほとんど取って代わられたのと同様である。しかしながら近年では、メディアはまるで単なる「小規模醸造」もしくは「典型的な軽いラガーではない味わいを持つビール」を指すかのようにクラフトビールという語を用い、拡散してきた。では、キリンのような大規模で工業的なブルワリーが実際にスプリングバレーブルワリー東京・横浜という小規模醸造施設をつくる場合、これは「クラフト」と言えるのだろうか。少なくともキリン自身はそうだと言っている。
日本の報道機関は規模の大小にかかわらず、「クラフトビール」という語を適切に調査、理解してから報道するという責任を、おしなべて果たしてこなかった。キリンのクラフトビールに関する報道は単に「当社はクラフトビール事業を進めている」というキリンの公式発表をそのままこだましているに過ぎない。マーケティング上の成功を追求し、小規模ブルワリーがつくってきた、一見、彗星のような勢いで伸びているように見えるクラフトビールへの便乗を狙いとする工業的ブルワリーに対して、まるで報道機関が無意識に口先の好意を向けているようだと思う人もいるだろう。なぜキリンは便乗しようとしなかったのか。日本でのビール消費量はこの数十年、全体としては減少し続けてきた。その一方でクラフトビールと呼ばれるものについては、製造量は約10年前から徐々に増え続けてきた。キリンという企業がこの重要性を調査し、成長の機会を追求するのはある意味当然であった。また、キリンが「クラフトビール」に関する発表をして、日本のあらゆる主要な新聞がその記事を載せたとき、何が起きたか? 日本でクラフトビールと呼ばれるものは、日本のビール系飲料の市場におけるシェアは1%に満たないものの、急速に大変な注目を集めているのだ。そのこと自体は小規模ブルワリーにとって好ましいことである。もしキリンがこの隙間産業に本気で取り組むのであれば、もしかしたらより多くの小売業者や消費者が追従するかもしれない。
キリンが「クラフトビール」と呼ぶ商品が、日本の小規模ブルワリーの勢いに乗り、彼らの見込み客を奪うことによって、彼らの成長を阻害しないかどうか。問題はこれである。サントリーによる「クラフトマンズビア」シリーズのようなさらなる圧力もある。この製品パッケージは「クラフトビール」という印象を明らかに与えてはいるが、サントリーは「これはクラフトビールである」と主張していない。このシリーズでは、同社が築き上げたブランドのライトラガーとは違うビアスタイルを取り上げている。これはごまかしをしたマーケティングだろうか。それとも、単に利口なマーケティングと言えるだろうか。日本の筋金入りのクラフトビールファンの中には、そうした大手メーカーによる製品をcrafty(ずるい)ビールと呼び、当然のように米国での「何が『クラフト』の構成要素となるのか」をめぐる論争をほのめかす人もいる。
日本のクラフトビールの未来のために、米国におけるクラフトビールの歴史と同様に、この「craft 対 crafty」論争を追い、何が店頭に並ぶのかを観察するのは役に立つ。日本と米国のビール文化にはいくつかの類似点がある。しかし、日本でのクラフトビールは米国とは違う状況にあることを示す興味深い点も数多くある。
米国では1990年代半ば以来、大規模なブルワリーが、所有するブルワリーとブランドをあたかも「クラフト」に見えるようにマーケティングをしてきた。これは逆に言えば、いくつかの小さなブルワリーが、クラフトであるかどうかを分ける重要な境界線を、大規模なブルワリーに売り続けていたということだ。この境界線をはっきりさせるために、大規模ブルワリーから成る業界団体の一つが、この論争の発端となった「craft brewer(クラフトビール会社)」の定義を発表した。
2012年の末ごろにある新聞が、「Craft vs. Crafty」と題したチャーリー・パパジアン(BA会長)、ボブ・ピース(同最高執行責任者(現・取締役))、ダン・コップマン(シュラフライビール)による署名記事を掲載。これは、大規模なブルワリーが傘下のブランドをクラフトビールであるかのように見せかけるのを批判したものだった。これにより、論争は公になるほど加熱した。この3人は記事を出したことで、BAによる「craft brewer」の定義、さらにはウェブサイトに掲載した「クラフトではないブルワリー」リストへの注意をひく機会を得た。そのときのBAによるいったんの定義には、「クラフトビールはクラフトビール会社のみによりつくられる」とあった。そしてさらに、「小規模であること」「独立していること」「伝統的であること」の三つの特徴を挙げた。
伝統的であること
「伝統的」という言葉は往々にして問題となる。前述のBAによる定義では皮肉にも、多くの人々が米国で非常に伝統的であると考えていたいくつかのブルワリーが除外されてしまった。それらのブルワリーは、主力商品に米またはトウモロコシを使用することで、境界線の外に置かれることとなったのだ。大規模で工業的なブルワリーは当然、実は味を意図的に単純にするため、そして非常にさっぱりとしていて水のようにごくごく飲めるようにするために、そうした副原料を用いてきた。しかし小規模ブルワリーは、米やトウモロコシをそうした目的で使っていたわけではなかった。
オーガストシェルブルーイングの6代目オーナーであるジェイス・マーティーは、こう答えている。「152年という、米国で2番目に古い歴史を持つ家族経営のブルワリーとして思うのは、私たちを『伝統的でない』と呼ぶことは無礼だということです」。マーティーは続けて説明する。マーティー家の先祖が19世紀に米国に移住すると、彼は米国産の大麦は自分がビールづくりで用いるにはタンパク質含有量が多すぎることを知った。そこで彼は、米国土着の原料であるトウモロコシを加え、タンパク質の量のバランスを取ってビールをつくった。そして世代を経ると、この製法は「伝統」となった。「なぜ地元で取れた原料を使ってビールをつくるからといって罰を受けなければならないのでしょうか。トウモロコシは必要に応じて使い始めたのであり、しかも伝統として今でも用い続けているのに」。マーティーはこう締めくくった。BAはこうしたブルワリーを「クラフト」に含められるように、自身が決めた定義を微調整してきたが、こうした矛盾は、ブルワーが原料を用いる「意図」に関して興味深い論点を浮かび上がらせた。つまり、ブルワーの意図について、実際にどうやって正しいと証明したり、判定したりすればよいのだろうか。
日本では、米を使うかどうかよりも、伝統的であるかどうかを考えることの方が難しい。神道には米と収穫の神々がいる。中世では経済は米を中心に回っていた。ユネスコ無形文化遺産に登録された和食の基礎であり、伝統的な飲み物である日本酒の基でもある。いくつかの日本の「クラフト」ブルワリーは、米を使った飲みやすいビールをつくっている。もちろん、すべての大手メーカーも米を使ったビールをつくっている。では、「クラフト」ブルワリーも大手メーカーも、同じ意図で米を使っているのだろうか。両者は確かに、出来上がりのビールを軽く、さっぱりと杯が進むようにするために米を使っている。しかしクラフトブルワリーは、日本文化の中心である米という原料を目立たせるために米を使っているように思えるし、実際、そうしたクラフトブルワリーのほとんどが高品質の酒米を使っている。高品質の酒米を使うブルワリーがクラフトブルワリーであると判断するだけで十分だろうか。もしそれで十分なのだとしたら、仮に日本の四大ブルワリーの一つが山田錦を使ったビールを製造・販売することを決めたとき、どのようにとらえればよいのだろうか。米はクラフトであるかどうかの試金石にはならないだろう。
原料に関する問題もまた、日本では混乱をもたらす問題の一つである。麦芽使用比率が3分の2を下回るものは「ビール」ではなく「発泡酒」に分類される。日本の大規模ブルワリーは、ビールにかかる高い税率を回避するために発泡酒をつくり始めた。そして当然ながら、そうした製品の味は互いに似通うようになった。ややこしいことに、日本における発泡酒の定義は、発酵が始まった後に入れる副原料にも及んでいる。麦芽100%だがよくスパイスが用いられるベルギービールは、この定義ゆえに日本に輸入される際にはラベルに「発泡酒」と記載される。クラフトであるかどうかを、ラベルに「ビール」と「発泡酒」のどちらが記載されているかで判断することはできない。
さらに奇妙な話がある。日本で醸造免許を取得するためには、管轄税務署に対して醸造設備の一覧を示して、年間製造量が60キロリットル以上、または6キロリットル以上となることを証明しなければならない。前者の場合はビール免許、後者の場合は発泡酒免許が与えられる。しかしビール免許を取得した場合、麦汁の煮沸後はいかなる原料も加えることはできない。例えば、ブリマーブルーイング(神奈川県川崎市)のスコット・ブリマーは、シエラネバダ(2014年秋号参照)での醸造経験がある。シエラネバダはビールに素晴らしい香りと苦い後味を付けるドライホッピングという技術の先駆者であり、ブリマーもこの技術を得ている。しかし、ブリマーはビール免許のため、この伝統的で広く普及している醸造技術を使うことができない。ビール免許は伝統的な醸造法のしるしであると思われているが、添加物を禁じている。麦汁煮沸後に入れるホップは、添加物の扱いになってしまうのだ。一方でブルワリーのなかには、財務や物流の都合で年間60キロリットルのビールを製造・販売できないところもある。そうしたブルワリーは発泡酒免許で営業している。これが何を示すかというと、彼らはビールにスパイスやフルーツ、そしてゴジラのうろこでも何でも入れなければならないということだ。各地にあるほとんどの税務署は、ドライホッピングを添加物として認めていない。官僚主義的な不一致だろうか。このように、何が「クラフト」かを法的定義に拠ることはできない。
原料に関する議論なしに、クラフトビールを語ることはできない。原料を創造的に使うことは、クラフトビールの最も名高く、明確に示されてきた特徴の一つであり続けてきたからだ。確かにビール産業は、インスピレーションを受けるため、ベルギービールの醸造の伝統に対して大いに敬意を払ってきた。ベルギーのブルワリーこそが、スパイスやフルーツ、その他の添加物の使い方を主に開拓し、今日では広く普及している。米国のクラフトビール会社はこの発展性に注目して、「やりすぎだ」と言われるほどしたい放題にビールをつくっている。日本でも状況はほとんど変わらない。
日本の酒税が1994年に改正されて小規模醸造ができるようになったとき、メディアは新たに誕生したブルワリーによる製品を総じて、字面の通り「地元のビール」を意味する「地ビール」と呼び始めた。ブルワリーの多くが地元の特産品を使ってビールをつくる契機だととらえた。日本で広く展開している産業にとって、「名物」は強い武器になる。
しかし残念ながら、多くのブルワリーは、ビールの質を上げるためではなく、売るための仕掛けとして地元産の原料に着目しているに過ぎなかった。消費者はうんざりさせられ、そうしたことを最初にし始めたブルワリーは2、3年後に倒産し始めた。こうした地ビールの悪いイメージは、少数の質の高いブルワリーの苦闘によって長い時間をかけて刷新されてきた。汚染され、オフフレーバーがあり、バランスの悪いビールをクラフトビールと呼べるだろうか。確かに、サントリーのクラフトマンシリーズは、味の濃さとその割に杯が進むことをもって、「クラフト」と呼ぶに十分に値すると言える。
そうした状況を正確に理解していたブルワリーは進歩を続けた。一方、苦戦を強いられていたブルワリーは技術と品質に再度立ち返った
(これは米国で実際に起きたことにも類似している)。そして2000年代半ばから、日本のクラフトビール製造量は上向き始め、製造を中止するブルワリーが出続けながらも、状況は好転した。クラフトビールという語は日本語の語彙の一部にもなった。クラフトビールという語がウェブ上のメディアに取り入れられていることは、グーグル検索の結果も示している。結局、小規模ブルワリーでは、地元産の原料を使わなくなることはほぼなかった。品質が優先事項となる小規模ブルワリーが増えていった。最初からそうあるべきであったのだが。別の表現をすれば、真に「クラフト」であることの重要性がやっと関係者の心に響いたのだ。
いくつかの日本のクラフトブルワリーは、高品質なビールをつくる一方で、土着の原料を用いた革新的なビールもつくり続けている。そのうち、ワールドビアカップやほかの権威ある国際的なビール審査会で受賞を果たして世界レベルと認められ、世界の注目を集めてきたブルワリーもいくつかある。清酒酵母や麹、清酒樽熟成による革新的なビールづくりをしているブルワリーもある。それゆえ、クラフトビール産業に携わる少なくない人たちが、昨年7月に行われた記者会見に臨んだキリンビールの磯崎功典社長(当時)を、やや傲慢だと思った。ロイターの報道によれば、磯崎は「日本のビールは今までのあり方から変化を遂げ、新たなステージに突入する過渡期に立たされている。独自のビール文化の創造に取り組む」と意気込みを語ったという。また、スプリングバレーはパイオニア精神の象徴である、とも発言した。この発言はやはり遅きに失しているだろうか。磯崎は、20年弱の間になされた日本のクラフトビールの大きな技術革新と、活動し続けてきた多くの先駆者たちのことを把握していなかったのだろうか。もしくは、記者会見に何かありそうだという噂を起こすための、単につまらない偏向報道だったのだろうか。
もしかしたらキリンは本気で革新的な取り組みをする意志があり、磯崎は全く尊大ではないのかもしれない。キリンのスプリングバレーブルワリープロジェクトの第1弾の製品はピルスナーとエールの合いの子だった。これは決して新しいものではなかったが、キリンにとっては確かに従来とは違う方針を打ち出した形となった。もっと大きな疑問は、新しくて独自性があって美味しいビールをつくることのできる製造工程のもと、日本独自の原料を取り入れるために、キリン自身の抜群の調査力と卓越した技術を使うのか否かということだ。そのビールが実際に出来上がったとき、それをクラフトビールと呼べるだろうか。キリンにとってのもう一つの挑戦は官僚主義からの脱却だろう。官僚主義が創造性や新しいアイデアを抑えてしまうのは疑いがない。キリンの官僚主義がビール製品の方針を制御するだろうか。実のところ、キリンはこれまで新しいビールのアイデアにつき、消費者からの提案に耳を傾けてきた。しかし今後、新奇な原料にかかる費用に関係なく、消費者のアイデアに沿った製品を開発する権限を社内のブルワーに与えるだろうか。この点は、クラフトビールづくりの精神の大きな部分を占めるように思われる。
クラフトととらえられるために、ブルワリーは独特な原料や新しい技術を使う必要はないことをおさえておくことも必要である。例えば富士桜高原麦酒は、世界レベルで伝統的なジャーマンスタイルのビールをつくっているが、原料は標準的なものだ。ベアードブルーイングは、2010年のワールドビアカップのアメリカンスタイルアンバーラガー部門で受賞を果たした。箕面ビールの名高いスタウトは実直で新奇性はない。それにもかかわらず、我々は箕面ビールの銘柄をクラフトビールと呼ぶ。そしてビアスタイルにぴったりと合致した美味しさを持ち、日本で急激な成功を収めたギネスのスタウトと比肩されるほどの銘柄をつくっている大手メーカーであるアサヒビールの銘柄は、クラフトビールとは呼ばれない。アサヒはその規模ゆえにクラフトではないということなのか。

小規模であること
規模も問題となるが、その内容はメディアや消費者が思っていることの対極にある。問題となるのは、「小規模」であること自体がクラフト的な製品を生み出すかどうかということではなく、大規模であるかどうか、それも、とてつもない規模のマーケティングと流通という強みをもたらすほど巨大であるかどうかということだ。クラフトビール産業に携わる人の多くは、この巨大さに独占的な力の行使の意思を見出し、「不公平だ」と叫んだ。日本の有力ブランドのビールの広告では、超の付く有名人を起用し、世界でも最大規模の(そして非常に高い費用がかかる)広告代理店がもっともらしくデザインを取り仕切っている。こうした広告代理店は、電車の内側を広告で塗りつぶすことができるし、彼らのロゴはあらゆるプロスポーツの開催会場で見かけられる。
この規模という乗り越えがたい優位性が、もともとBAがクラフトブルワリーを定義するための一つとして製造量を用いることを決めた理由となった。しかしこの製造量による定義付けもまた、過去も現在も論争の的になっている。サミュエルアダムスを製造するボストンビール社は、米国のクラフトビール運動の初期に、自身の規模の小ささと大規模なブルワリーと比較してクラフト的であることを強調することにより、自身の独自性をつくり上げた。そしてその動きはラジオとテレビでの巧妙な広告を通してなされた。皮肉なことに、少なくとも同社はそうした広告を打てるほどの資金を持っていたということだ。その後、同社は驚異的なペースで成長を続け、米国内外の多くのクラフトブルワリーにとって成長のためのモデルとなった。現在、同社は上場企業である。2013年9月9日付けのブルームバーグの報道によると、ボストンビール社の共同創業者であり社長を務めるジム・コッホの個人資産は10億ドルを超えたという。BAは、同社を自らのメンバーに留まらせるために、クラフトの定義の一つである「小規模」について、年間製造量の上限を200万バレルから600万バレルに引き上げた。この動きについて「恣意的だ」と中傷する人もいる。BAは「仮にボストンビール社をクラフトから除外してしまうと、クラフトビール産業の先駆者である1社の会員の地位を否定することになる」と反論している。クラフトブルワリーの典型例であるシエラネバダの製造量は200万バレルに届こうとしている。600万バレルは約72万キロリットルである。この値は、市場シェアは1%に満たず、四大メーカーと比べるとかなり小さいものの、日本で5番目の規模を持つ工業的なブルワリーであるオリオンビールの製造量の約20倍に相当する。2013年の日本のクラフトビールの製造量は約3万5000キロリットルであり、これはオリオンの製造量とほぼ同じである。
明らかに日本のビール市場は米国のものとはかなり異なり、規模もかなり小さい。米国では最大規模のクラフトブルワリーが同国の大規模ブルワリーと比べるとほんのわずかな規模であるのと同様に、日本で最大の部類に入るクラフトブルワリーも五大ブルワリーと比較すれば取るに足りない規模である。ここで新たな問題が出てくる。スプリングバレーブルワリーがヤッホーブルーイングやエチゴビール、小樽ビールなどよりかなり小規模となる場合、それはクラフトと言えるのだろうか。

独立していること
よなよなエールをつくっているヤッホーブルーイングはクラフトビールではない――。BAによる独立性に関する定義「クラフトビール会社でない会社による株式取得率が25%(もしくは同等の経済的持ち分)を下回っていないブルワリーはクラフトではない」を用いれば、この命題は真である。もちろんヤッホーは米国にあるわけではなく、日本にいる誰もが同社をクラフトブルワリーだと考えている。彼らは最も人気があるクラフトブルワリーの一つであり、日本に「クラフトビール」を広めたことによって多大な称賛を受けるに値するブルワリーだ。ここで、あえてBAの定義を持ち出す必要はなかろう。BAは他国の文化におけるクラフトビールを定義しようとしているわけではないと明言してきたし、現在、それぞれ固有の状況を巻き込んだクラフトビール運動が起きている文化が数多く存在している。BAによる定義はまさに、数カ月から数年の間に確実に日本のクラフトビール産業の独自性を問うてくる、あるものを浮かび上がらせている。それは所有権である。
キリンがクラフトビール産業に加わってきたように、ほかの大手メーカーも参入している。彼らは自社で「クラフト」ブランドを立ち上げるか、既存のクラフトブルワリーを買収しようとするだろう。買収やあからさまな所有権の行使があった場合、受け入れられる基準とはなにか。キリンがヤッホーブルーイングの株式を30%強取得したことは、ヤッホーがクラフトビール会社であると思って愛飲し続けてきたファンにとって受け入れられるものなのだろうか。

おそらく、ヤッホーのファンの多くは株式取得のことを気にしていないだろう。キリンはこれまでクラフトビール産業を積極的につぶそうとはしてこなかったからだ。このことは、米国で過去、大規模なブルワリーによって仕切られてきた多くのクラフトビール会社の経験とは非常に対照的であるが、同時に、BAによる所有権に関する注意の意味を明らかにしている。おそらく、ヤッホーのファンは製品がクラフトであるかどうかも全く気にしないだろう。ビールがヤッホーの製品であることと、ブランドによって独自性が確立していること。ただこの理由から彼らはヤッホーの製品を好んでいる。
日本では、クラフトビール業界も消費者団体も所有権によってクラフトビールを定義することはない。クラフトブルワリーと考えられている日本の企業の所有権には、ほかの業界ではごく当たり前に見受けられ、本質的に異なるものがいくつか含まれる。数多くの清酒メーカーがクラフトビール事業を並行して手掛け始めた。これは当然理解できる流れだろう。農業法人として立ち上がったブルワリーもあるし、ヤッホーのようにリゾート運営会社が立ち上げた例もある。さまざまな事業会社を傘下に持つ、持ち株会社によって所有されているブルワリーもある。そうしたブルワリーは地域の観光協会と結びつきがあることが多い。そして、ドライブインにあるブルワリーもあって、やはり奇妙である。オーナーがブルワーも兼務しているのも少数である。とはいえ、ブルワリー新設の波とともにオーナーブルワーの数も増加の傾向にある。この傾向はクラフトビールの明るい展望を感じさせ、「クラフト」のもともとの発想にかなった製造量とも結びついている。
品質とビジネスの両方の観点からして最も成功している日本のブルワリーは、ブルワーオーナーか少なくとも日々の業務・作業に深く関係しているオーナーによって経営されている。そのほか、従業員ブルワーが企業の公的活動において中心的かつ目立つ役割を果たしており、自由も名もない単なる後方の従業員ではないし、同じく名もない経営陣に従うだけでもない。彼らは次のようなライフスタイルを採用している。すなわち、自身が考案した高品質のビールをつくるために一生懸命働き、イベントでサーブするため旅に出て、顧客と出会い、同業者と親交を深める。来る年も来る年もこのサイクルを繰り返す。このライフスタイルを営む理由は単に質と金銭面での憂慮に留まらない。
「質の面で妥協のない原料が使われ、自身の人生を眼前のクラフトに捧げている人間によって小規模で醸造されるビール」。このような定義はどうだろうか。しかし、本定義も不十分、または、いささか曖昧すぎるかもしれない。究極的に、日本で自身をクラフトブルワーと考える人々こそ、総体的に、かつ民主的に、自身が何者か、そして自身がつくるものが何なのかを定義すべきなのだ。彼らによるクラフトビール/クラフトブルワーという定義は、スプリングバレーや、その他、大企業の関連会社として創設される小規模ブルワリーをも含むかもしれない。
現在ビールをつくっている小規模ブルワリーは非常に厳しい20年を過ごし、日本のクラフトビールというものを、より多くの国民を魅了するエキサイティングな現象へと高めた。今日の礎を築いた彼らこそがクラフトを定義すべきだ(もしくは、彼らこそがクラフトという用語の占有権を持つべきだ)。クラフトを定義するのは大規模ブルワリーやメディア(本誌を含む)では絶対にない。この定義の問題が放置されれば、市場に流れ込む出所の不明なすべての取るに足らないビールに「クラフトビール」のラベルが貼られることにもなりうる。
もしかしたら問題にはならないかもしれない。小規模ブルワリーがクラフトを定義するか否かに関係なく、良いブルワリーはコアな消費者と結びつくだろうから。同時に、クラフトビールの定義は消費者の想像力によってなされると答える影響的なクラフトビール業界の有名人も米国にはいる。
そう、「クラフトビール」が何たるかについては消費者の想像力に拠る。しかし、これは、誰もがそれを定義できるという意味ではない。クラフトであるという理由で何かを意識的に購入する人の多くは、ある種の規範に承認を与えていることを意味する。彼らはその規範をブルワーやブルワリーの経営者によって定義してもらい、おそらくその定義に従うであろう。
この点では、クラフトビールは、規範を持つという点において、少なくともクラフトビールであるといえる。規範に従う理由が単なる金儲けではないことを、そろそろ私たち消費者は知っておかねばならない。彼らが本当に美味しいと思えるビールをつくることこそが最も重要であることを祈ろう。さもなければ、ブルワーは「クラフト」という単語自体をわざわざ使うべきではない。それこそcrafty(ずるい)というものだろう。
本稿は、ジャパンビアタイムズ発行人のライ・ベヴィルによる、クラフトビールの意味を探るための前後編からなる記事の前編である。筆者はスプリングバレーブルワリーのビールを飲むことを楽しみにしているが、本稿はキリンまたはスプリングバレーブルワリーを推奨するものではない。キリンは、ビールのために彼らが貢献できることがあることを証明するチャンスを、持っているはずだ。
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